2018年5月18日、岐阜県高山市で「第2回産地カンファレンスin高山2018」が以下の日程で開催されました。
基調講演とパネルディスカッションの内容を、当HPにて数回にわたり掲載していきます。
◆「工芸と工業の次」第2回産地カンファレンスin高山2018
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基調講演「飛騨の匠を育てる」
岡田贊三 皆さま、こんにちは。「日本工芸産地協会」が発足しまして、第2回目の産地カンファレンスをこの高山で開いていただきましたこと、たいへん光栄に思っております。また、交通の不便なこの高山に全国からお集まりいただきましたこと、本当に心から感謝申し上げます。先ほど、副市長からもご説明がありましたけれど、飛騨はたいへん面白いところです。この街を私たちは背負っていき、将来にも栄えさせていくために「いま我々は何をすべきか」とそんなことを考えて仕事をしているところでございます。
飛騨産業株式会社 代表取締役社長 岡田賛三(おかだ さんぞう)
1943年、岐阜県高山市生まれ。1968年、立命館大学卒業。(株)富士屋代表取締役社長に就任。2000年、現職に就任。廃棄されていた木の節を使った「森のことば」シリーズや、国産杉を圧縮加工して使用した「HIDA」シリーズなど、ヒット作を次々と生み出す。国内外の有名デザイナーと協働で製作した家具も多数。生産体制の見直しや改革を手がけた結果、就任から14年で年間売上50億円を達成。著書に、『よみがえる飛騨の匠』〈幻冬社〉など
飛騨産業という会社
私どもの「飛騨産業」という会社をざっとご説明いたします。
本社工場
2011年、街の中にありました工場を山の中へ移転して、本社工場を建てました。街の中に工場があった頃は、近所に木屑が飛ぶとか騒音だとか、色々ご迷惑をかけていましたが、いまは森に囲まれ、たいへん環境のいいところで仕事をさせていただいております。中央に見えますのが 本社工場、その右奥に本社事務棟と第二工場がございます。少し離れた場所に廃校になった学校の校舎がありまして、そちらを本社として、私ども飛騨産業で使わせていただいております。
飛騨産業は大正9年に設立されました。今年で98年になりまして、あと2年で100周年を迎えることになります。なんとかこの100周年をしっかりと迎えて、次の200年に向かって確かな足取りで進めるように体制を作りたいと思っております。
◆会社概要
設立 :1920年(大正9年)
資本金:1億円
従業員:460名(パート社員含む)
年間商売額:50億円
事業内容:家具インテリア用品の製造販売・自然エネルギーによる発電事業・林業、製造業
高山は東京都とほぼ同じ面積があります。その面積の中に人口が89000人しかいないのですから、一人当たりに自然の量を割り当てた場合、たいへんな量だと思っております。また、飛騨は森林資源が豊かで、縄文系の人間が多いと言われていて、私も縄文系の顔かなぁと思っております。
様々に語り継がれる「飛騨の匠」
この地域には、「飛騨の匠」という言葉が代々伝わっております。律令時代に公課であった「租庸調」の租と庸を免除され、都造りのために毎年100人の匠が技術を活かして都へ行っておりました。それが約400年以上続いていたわけですね。飛騨と都はずっとつながっていた。「飛騨の匠」には、そういう歴史がございます。
万葉集の中に「かにかくに 物は思はじ 飛騨人の 打つ墨縄の ただ一道(ひとみち)に」*1という句がございますが、これは恋の歌なんですね。飛騨人の打つ墨縄がまっすぐであることから、「私の思いはあなたにまっすぐですよ」という意味で歌われたそうです。万葉集の歌に詠まれるくらい、「飛騨の匠」の仕事は知られていたということが伺い知れます。
*1)万葉集 11の2648 作者不明
そのほか、葛飾北斎はたいへん沢山の「飛騨の匠」の物語を描かれておりましたし、色々なところで講談にでてきたり、「飛騨の匠」にちなんだ様々な伝説がございます。戦国時代には、金森長近(かなもり ながちか)という武将が飛騨高山藩を治めます。その孫である金森重近(かなもり しげちか)、雅号・宗和(そうわ)という方は、たいへん茶の湯に秀でた茶人だったそう。当時、千利休と金森宗和は双璧だったのですが、千利休は武家のお茶、金森宗和は貴族のお茶ということで「宗和流」という流派を開き、皇室などでも茶の指導をされていたということを聞いております。
右上の図は、高山城だったところですね。高山の街は、まっすぐ碁盤の目のようにして開かれました。東にはお寺があり小京都と呼ばれたりもする、そんな街でございます。その後、江戸幕府の直轄になりまして、「高山陣屋」*2というのが開かれます。そして幕末まで来るわけですけども、この山奥になぜ直轄地の陣屋ができたのか。高山は地理的に日本の中央でもあるということで、いわゆる関所のような形、あるいは近くにあります金山の「金」を収めるためなど、諸説あると聞いております。
*2)高山陣屋:国指定史跡。元は高山城主金森氏の下屋敷の一つで、飛騨が徳川幕府の直轄地となってからは、この場所で飛騨の政治を行った。陣屋と呼ばれる役所が残っているのは、全国でも高山だけ
そういった匠の伝統を引き継いだ遺物が、高山祭の屋台でありますとか、高山には日下部邸や吉島邸など、木をふんだんに使い、木組みを生かした素晴らしい木造家屋がたくさん残っております。
- 参照:飛騨高山「日下部民藝館」
- 参照:吉島家住宅(国指定重要文化財)
1920年にスタートした西欧家具づくり
私ども飛騨産業は、1920年「中央木工株式会社」の名で始まりました。西欧の曲げ木の技術と地元の技術を融合し、西洋家具を誕生させ、世に送り出していきました。西洋家具など見たことのない飛騨高山の人たちですから、最初はドイツの家具ブランド・THONET *3の模倣をしながらスタートした訳ですけども、たいへん苦労をしたと聞いております。
*3)THONET : Michael Thonet(ミヒャエル・トーネット)によって1819年に設立されたドイツを代表する家具ブランド。曲木技術を完成させ、世界で初めて曲木家具の大量生産に成功したメーカーという歴史的な実績を持つ
昭和初期には、生産量もたいへん増えました。当時の時代背景もあり、輸出をどんどん行うことによって栄えていきました。戦時中は、木工技術を活かした軍需産業として、燃料用の落下タンクを大量に作りました。戦闘機に油(燃料)を積んで、空になったら捨てていくため、燃料用のタンクが大量に必要だったのです。それと並行して、木製飛行機の製作にも取り組みましたが、その飛行機が完成して飛んだ頃、終戦を迎えました。木製の飛行機を飛ばすことはできても、鉄でできた飛行機とはスピードが違うので、おそらく戦争に行ってもダメだったろうと、当時を知る方から聞きました。
戦争後は、平和産業として栄えていきました。飛騨高山は寒い地域ですから、コタツを使ったりですとか、戦争で怪我をされて帰ってきた方々のために、松葉杖などを作り始めました。そして、家具を作りアメリカや韓国へ輸出を展開する企業となりました。
高度経済成長期は「同じものを毎日毎日作っても、売れて売れて仕方がなかった」と聞いております。大変羨ましいような時代でした。そんな中、円高も進んでまいりまして、輸出産業から国内産業に舵を切ることになりました。そして一般家庭向けに「穂高」というシリーズを発表したところ、雑誌『暮しの手帖』の初代編集長の花森安治*4さんに大変気に入っていただいたそうです。
*4)花森安治:『暮らしの手帖』初代編集長。表紙画、挿画、レイアウト等、一冊の隅々まで手掛け、世に「カリスマ編集長」と呼ばれた
当時、「メーカーのものは絶対に褒めない」と有名だった『暮しの手帖』で特集を組んでいただいたり、「飛騨産業の家具は安心して読者の皆さんに提供できる」と太鼓判を押していただきました。紙面で通信販売を行っていただいたり、東京で展示会が行われる際には、花森さん直筆のタイトルを書いていただいたそうです。
その後、技術が認められるようになり、皇居の新宮殿「千草・千鳥の間」という待合室に、飛騨産業の家具が収められました。そのように過ごしてまいりましたが、高度経済が終わり、バブルが崩壊し、大変厳しい状況になっておりましたとき、私はこの会社に参りました。
→次回、【第2回レポート】基調講演「飛騨の匠を育てる」 飛騨産業社長 岡田 贊三2/2 へ続きます
写真・スライド提供:飛騨産業株式会社
テキスト編集:中條 美咲